信楽焼の歴史
History
信楽の自然
信楽の自然 滋賀県の最南端に位置し、三重県とも隣接した海抜300mほどの緑豊かな山林地帯が信楽の町です。そこに自生するアカマツが器を焼くたきぎとして適していたことが、この地をやきものの町として発展させた要素のひとつです。そしてもうひとつ、信楽の土があります。この粘土には長石や石英などが多量に含まれていて、これが焼かれるときに器の表面に吹きだし,乳白色の斑点となって浮かび上がります。
信楽焼 信楽の特徴
  1. 無釉の焼締が多いこと
  2. 長石が焼かれると器の表面に吹きだし,乳白色の斑点となって浮かび上がります。
  3. 薪の灰が付いて自然釉がかかり淡い黄色や緑・褐色などに発色します。

信楽の原点は聖武天皇の「幻の宮」
紫香楽宮 信楽の原点は天平14(742)年、聖武天皇が紫香楽宮を造営した時、瓦を焼かせたことが始りといわれています。その歴史は1200年前にまでさかのぼることができ、日本六古窯の中で最古の焼物といわれています。紫香楽宮は大仏建立発願の地であり、たくさんの礎石が今も残されています。いにしえに想いをはせてみてください。

平安時代の末期から本格的に 日曜雑器
壺やかめ 本格的に始まったのは平安時代の末期から鎌倉時代の初めになってからです。このころ水田農耕がさかんになり稲の種を保存するために、壺やかめを必要としたことから日曜雑器がやかれた。無釉の焼締めで、実に素朴なやきものです。

桃山時代 茶人たちにみだされ茶陶として
茶の湯が流行した桃山時代、とくに千利休の師といわれる竹野がいかにもさりげない自然な風体を茶の湯の道具として見立てたことから人気になりました。種壺としてつくられた壺を人がうずくまるような形から「蹲」(うずくまる)という名の花生けに、紡いだ糸を入れる桶を「鬼桶」と名づけ水指しとしてみたてたことは有名です。

鬼桶 蹲(うずくまる) 御茶壺
鬼桶 御茶壺
将軍家のための宇治茶は信楽の壺(御茶壺)に入れて送られました。2代将軍秀忠が信楽の壺を2本注文されてから御用品となり、大名行列のような大袈裟な行列(御茶壺道中)で運ばれたようです。信楽は朝鮮通信史の接待用汁器も生産し、後で千両箱が届いたので職人たちは腰を抜かしたといわれています。

明治時代 火鉢から現代へ 時代ととに生き抜く
火鉢 利休の死後、茶道具の需要が減ると日曜雑器づくりへと戻り、土瓶・土鍋・徳利・ぐい呑みなど一般家庭向けに造られるようになりました。また、茶壷が売れなくなると火鉢を作り出し、明治の頃は全国の火鉢の9割を生産していました。その火鉢もやがてストーブなどにとって替わられると、植木鉢・庭園用のテーブル・タイルまた、有名なたぬきの置きものなどを中心につくられるようになる。信楽焼は柔軟に時代に適応しながら、独自の伝統を守ってきたのです。

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